昭和48年6月5日。


X御理解第二十節
「此方が天地金乃神よりおかげを受けておる事を話にして聞かすのぞ。疑うて聞かぬ者は是非におよばず。かわいいものじゃ。また時を待っておかげを受けるがよし。めいめいに子を持って合点せよ。親の言うことを聞かぬ子が一番つまらぬ。言うことを聞かぬ子は、親もしかたがあるまいが。


 此方が天地金乃神よりおかげを受けておる事とおっしゃる。どうゆう事だろうか、おかげを受けておるとゆう事、どうゆうおかげをお受けになったのであろうか。
 教祖様の、いわゆる実意丁寧神信心によって、天地金乃神様との交流がおできになられるようになり、天地の親神様から御依頼を受けられて、世の中の難儀な氏子を取次ぎ助けてやってくれとゆう、神頼みをそのままお受けになられて、その氏子が助かっていくとゆううえに、さまざまな角度から、かくあらなければ、かくしなければ人間が幸せになれないんだとゆう事を、神様から直接頂いた事を話にして残しておって下さる。
 その中心をなす、また教祖御自身がお受けになられたおかげとゆうのは、どうゆう事かというと、やはり和賀心だと思うですね。ですからこの御教のすべてを、せんじつめてまいりますと、結局人間が幸せになる、幸福になるとゆう事は和賀心だと、その和賀心になるためのあらゆる角度から教えておられるのがこの教典だと思う。
 その和賀心の段階というか、まあいうなら同じ和賀心というても、ピンからキリ迄あります。けれども教祖様の場合は、それが絶対の和であり、絶対の賀であったとゆう事であります。ですから教祖様が受けられたおかげとゆうのは和賀心のかたまりのようなものであったと、此方の事を生神生神というが、みんなもそのようなおかげが受けられる、此方がおかげの受け始め、おかげの受け始めとおっしゃるおかげとは、どうゆうものであったか、いわゆる生神金光大神の境地と申しましょうか、その生神金光大神の境地とゆうのは、いわゆる和賀心の固りのようなものなんだ。
 和というのは平和の和ですから、心が穏やかであるとゆう意味にも通じます。同時にその穏やかな心が絶対に崩れない、これが絶対の和であります。私共がいかにも穏やかであるように、心が安らいでおるようにあるけれども、ちょっと何かした事に当るともう心が乱れる。そうゆうものではない。
 そこで私共が和の心を目指させてもらって、いわゆる金剛不壊と申しますが、もう絶対に壊れないその心とゆうものを育てゝいく、そしてこの和の心とゆうものがこのようにも、有り難いものだ尊いものだとゆう事を体験させてもらう。
 昨日は神愛会で先生方が集っておられます。いろいろお話させて頂いたのに、この事についてお話しをさせて頂いた。
 お互いがね、確に有り難いとか、心が安らいでおるとか、ちょっとした事で心がイライラモヤモヤする事があるでしょうが。
 今私共風呂のドアが今頃からちょっと崩れておりましてね、もうちょっとやそっとでは開かんのです。ガッチャン、シッチャンいうてから、もう開けるとが、うかつに開けると手の方が痛い、皆さんそんな体験なさった事はないでしょうか、歯がみして開けるごたる心が起こってくるでしょう。あの歯がみする心がいかんとです。いわゆる心が、もうちょっと、たったその位の事にもモヤモヤする。そこで、扉を開ける前に、たとえどんなにガッテャンシッチャン開かんでも、それを信心で開けようとゆう心になって扉に手をかけなければいけませんよとゆうような話をした。
 もううかつにこう開けよるとモヤモヤする、イライラする、歯食いしばろうごたる。けれども、これはもう初めからそのつもりで、そしてそれが開けるような具合にです、それを前から、いうなら心がイライラしたリモヤモヤしたりしないように心掛けなければいけない。
 これはもうこんな小さい事だからと言わずに、小さい事だから、このくらいの事だからよかよかというところからです、いわばイライラモヤモヤの心が大きくなってきとるのですから、和賀心を目指す、この和の心を目指すとゆう事は、そうゆう細心な注意とゆうものが要るのです。
 これが賀の心、賀びの心とゆう事になると、もういよいよ難しい。信心のもちろん賀び。信心頂いておるから有り難いというのも決して嘘じゃない。けれどもそれがです、いうなら次の働きの上にそれが、およぼしていくほどしの喜びの心でなからなければならん。
 働くとこういう。いわゆる仕事をする、その仕事とゆう事は、事に仕えるとゆう事であり、働くとゆう事は、はたを楽させるとゆう事であり、そうゆう働きができるようなおかげがです、いわゆる賀の心を内容としていかなければできる事じゃない。信心の喜びの心をもって一生懸命働かして頂くとゆう事がはたが楽になる事であり、その事に奉仕する、仕えるとゆう心。もうそこには給料が安いの高いの、働き損であったといったようなものはさらさらない。はたを楽させるためのもの。
 昨日私は教徒新聞が参りましたから読ませて頂いておりましたら、信州の木曾の山の中にある教会で、大変お徳を受けられた田地馬三郎とゆう先生が「木曾山中の桂松平先生」 とゆう事を書いてある。
 あの御木部御造営を思い立たれて、あの木曾山中に久留米の石橋先生とか、安武先生なんかを連れて自身が木曾山中に乗り込んで行かれた。そしてあちらで一つひとつ神様に御神意を頂きながらあの大きな檜を切られた。多い時には百何十台とゆう馬車を連ねて、しかも駅迄は五十二キロもある所を、しかも道はもうぬかるみの冬の寒い時なんか霜どけで、もうそれは大変な難渋をしながら駅に出された事があった。
 百何十台とゆう馬車を連ねて…、その或る時に、これは御伝記にも載っておりませんしね、初めて聞きました事です。とゆうのはね、これはお宮のお扉にするんだというて、二十メートルからある檜材をきれいに割いて、そしてそれを切ってその一枚一枚を一台の馬車に積んで、白布に包んで、その上から莚を掛けられて出されるといったような、もうそれは心の込め方には恐れ入ってしまうと、その当時の事を先生が話しておられる。
 それがですね、その教会に電報が来た。その電報にです、そのたくさんな檜材がね、駅迄出してから一夜の中に灰になった。もうその電報受け取った時にへたへたと腰が抜けたといわれる。その田地とゆう先生が…。
 それでさっそくその現場にかけつけられたところがまあだくすぶっておった。そん時に桂先生がおっしゃった事はね「木だから燃える」 とおっしゃったそうです。
 はあ、なるほどそうゆう辛苦をなさって集められた材木が、とうとう事が成就しないで、今御本部参拝させてもらって、あのお手洗いまたはあの廊門ですね、あれと同じ念の入ったものでお広前が建立されたけれども、それは間もなく炎上になった。
 そしてその御炎上の後に私共が今迄お参りしておった、あのお広前が仮建築でできてから何十年間になったわけです。そして今度また新たな会堂ができたわけですけれども。
 もうですから初めから炎上するような事は分かっておられたんじゃないでしょうか、神様は…。だから、いうならば氏子のその一心の思い、真心というものは、お受けになったけれども、まあだそれは時期尚早であった。御神意ではなかったとゆうふうに思う。
 その当時三井教会が北野にあった時分、それはもう当時の桂先生の手続を頂く所の教会はもう大変な事であった。木曾山中から電報が矢継ぎ早にやって来る。「〇オクレオクレ」 とゆうその電報が。
 その事の為に三井教会の初代なんかは命を断とうと迄された。そしていけんけれどもニナ川あたりの御信者の所へ行って、その旨を話されておかげを受けられたのが、あの三井の光になってるでしょう。
 もうそれはそれは、もう本当に教会全体が大変な難儀をした。その為に…。だから、こんな無理な事をしてよかろうはずはない、とゆう先生すらあった。
 そうゆう中におかげを頂いておられて、しかもそうゆう思いの一心、真心、桂先生の生き方というのが前には進んでも後には退かんとゆう生き方ですから。
 もうそうゆう大変な事が途中であっても、御自分では脱腸でもう死ぬか生きるかとゆう所を通っておられます。
 なるほど、だからその事は灰になってしもうたけれども、そんならそれに注がれた桂先生の熱情とゆうものは、いわゆる不退転の御信心とゆうものは桂先生の力になり、九州中のやはり御比礼になった事は事実です。
 そういう事を初めて私は昨日の新聞によって分からせて頂いた。はあ、まあ読みようが悪かったら、やっぱそげな不浄の事があった。やっぱ神様の気感に適わん事はいかん。というても、それが氏子の真心一心である場合は、その事は成就しないけれども、力はやはり桂先生が受けられたという事になるわけです。信心にはそういう所があります。
 これは例えば和の心を壊さないとゆう事、どんな場合であっても、それが水に流されようが焼けようがです、それは流れるものは流れる、それは材木だから火に焼けるとゆう事になるわけです。
 そういう、いわばいわゆる金剛不壊の心というものがです、和の心。賀の心とゆうのは信心によって生まれて来る。いわゆる賀び、その賀びとゆうものは、いわゆるはた楽、仕事、事に仕える、その事がです、その喜びが原動力となって働かしてもらえるような働きを目指すとゆう事が賀の心、賀びの心。
 信心頂いて、御理解頂いて、本当に一生懸命拝ましてもろうて、心の中に何とはなしに和らいだ、そして賀びの心が生れてくる、これもやっぱ和賀心。
 そういう心がです、いよいよ確固たるものになっでいく、そういうものを教祖生神金光大神は頂かれ自分の身につけられた。それで私は、天地金乃神よりおかげを受けておるとゆうのはそれがシンだとこう思うのです。
 昨日神愛会の時若先生が話しておりました。丁度それ前に〇〇先生がある共励の場で、和賀心とゆう事についての解釈を、先生方がいっぱいの時質間をした。そしたらどうも要領を得なかった。だから全然分からなかった。分からんというたけれどもそれ以上は説かれなかったとゆうわけなんです。
 それを聞いてから若先生が話しておりましたが、これはどこかのお寺の管長さんがです、金光教の一番素晴らしいのはこの天地書附だと、あの和賀心だと、あの和賀心を金光教は看板にしたらいい、あれを前に立てていったら素晴らしい、と言わ事をいわれたらしいけれども、金光教全体で、なるほど日々お唱えはさせて頂いておるけれども、そんなら和賀心とは、和賀心によって受けるおかげとは、とゆうふうに正面切って問題になっていないという事は残念な事だといったような話が昨日出たんですけれどもね。
 合楽ではもう…私は教祖金光大神もそこに焦点を置かれ、そこを頂かれたのが教祖金光大神だと、これはもう完壁な迄のものを頂かれたんだと、それが生神金光大神の境地だと、和賀心の完璧なもの、それが生神金光大神の御神格なんだ、だから私共はそれを目指して行くのだ。
 私は今日御神前で頂いたのが、火遊びをしておる、それがボール紙のようなものを焼いて、それがパーツとこう燃え上った。そしてそれが撮影をしておるようである。その燃えとる具合を、そして燃え上ってしまって、灰になって最後に紙の事ですからクルクルとまかる。そこに一陣の風がプーツとふいて来たらそれがパーツと飛んで行って、どこへ飛んで行ったか分からんような感じで、何ともいえん情景で頂いた。
 私共が一生かけて、そこに命をかけるとこういうが、それこそ火遊びのような事に一生かけたんじゃもったいないですね。
 私は今日は皆さんに本当に分かって頂きたいと思う事は、私共の心の故郷とゆう事、魂の故郷というのは、やはり天地から出でて天地に帰るとゆう事なんです。其の故郷なんです、天地は…。
 その故郷に帰る時にです、皆さん故郷に錦を飾るというでしょう。一生の働きをさせて頂いて、さまざまな、いうならば働きをしてきた。そして結論としてあの世にお国替えのおかげを頂く時に何をその人が持って行ったか、それこそ一生が火遊びのようなものであった。
 一生を終わった時にはそれこそ真っ白い灰になって一陣の風と共にどこへ行ったやら分からんようなものであってはならない。火遊びのような一生であってはならない。
 あの世にも持って行けこの世にも残しておけるものは神徳じゃとおっしゃる。その神徳の内容というのは私は和賀心だと思うのです。その和賀心だけしか持って行けんのです。あの世には。
 私はこの仕事に命をかけるというが、私は金を貯める事に命をかけるという、金はもう命より大事と言うて命をかける、その金がどうなるか。
 一生をいうならば火遊びによって、最後の所を燃えつくしてしもうた時には、一陣の風と共にどこへ行ったか分からんような事になったんでは何にも持って行く事はできんじゃないか。
 心のいうならばふるさと、魂のふるさとは天地である。天地より出でて天地に帰って行く、帰って行く時にです、そんなら錦を飾って行くおかげを頂くために、人生はあるのだと本当は悟らなきゃいけません。いわゆる魂を清める事のために私共のこの生というものはある。この世に生きておるとゆうのは魂を清めるためにある。
 その魂を清めるとゆう事はどうゆう事かというと和賀心になる事を焦点とする事だと、和賀心時代を創るとゆう。
 とゆう事はです、それはみんなが和賀心になる事は、そんなら合楽で二十年の信心の稽古をしている方でも、なかなか本当の和賀心とゆうものは、目指しておっても頂けてないようにです、ただ分かって頂きたいのは、人間の幸せ、幸福に直結するものは金でもなからなければ物でもない、もう心なのだ、しかもその心が和賀心へ向かって行くとゆう事にならなければ人間の真実の幸福はあり得ないんだと、分かるだけでも素晴らしい事だ。
 だからお道の信心させて頂く者が、全教一新全教一家と金光様がおっしゃっておられたが、全教が一新して、全教が一新してとゆう事は教祖様の信心に直参するとゆう信心。
 それをそんならせんじつめると、金光大神が受けられたぎりぎりのものは和賀心。だから金光教の信心はこの和賀心を目指すという事だけに焦点を置いて、その教えのすべては和賀心になる事のためのみ教えだとゆうふうに頂いてもいい。だからこれが看板、これがスローガンでなからにゃならない。
 全教が一新して、全教が一家という事は、全教がうちこぞってという事である。そんなら和賀心とゆう事にならなければ人間の幸せがあり得ないんだと分かったら、それに向かって精進するとゆう事をです。なるほど和賀心になればこのようなおかげにもなる。おかげも現す事ができる、とゆう事をです全世界の総氏子にこれを知らせていかなければならん。
 これは知らせるだけでいいのだ。人間の幸せというものは、金やら物やら、どんなに科学が医学が、どうゆう学問が発達してもです、その幸せの根本は心である。そんなら心も和賀心を目指さなければおかげにはならない。和賀心を目指すとゆう事が人間の幸福の根本の条件であるとゆう事をです。これを全世界の人達に全教一新全教一家となって、これを広めて行く事にあるのです。
 それを小さくいうならばです、そんなら合楽に御縁を頂いておる皆さんが、まずは和賀心にならなければ人間の幸せはない、和賀心になろうと努めるとです問題が解決する。解決するだけじゃなくてそれがおかげの方へ展開していくとゆうほどしのいうなら功徳があるわけです。和賀心とゆうものには。
 ですから和賀心にならなければ人間の幸福はありえないんだとまず分かって、その和賀心を目指して精進する。精進する事によって生まれてくる現われてくるところのおかげを引っ下げて自分の周辺にそれを広めて行く。どんな難儀な問題であってもそれこそ消えて行くのである。和賀心の前には…。
 限りなく美しくなりましょうやと以前合楽で合言葉のように言っておった。限りなく美しゅうなろうとゆう事だけでも問題は解決する。汚い我情我欲が必ず問題を作っておるのですから。
 だから私共には、そうゆうひとつの責任があるのです。和賀心にならなければ人類の幸せはありえない、そんならそれを目指して進んで行くとゆう事がいよいよ幸せを獲得する事だという事を分からせるとゆう事だけでも、その和賀心時代を創るとゆう運動にお互いが参加させてもらわなければならないとゆう事。
 そこで最近、それを教会を中心とした願いを立てるとゆう事になってきた。教会の大繁盛を願えと、数会の大繁昌とゆう事は、それだけ教会に難儀な氏子が集るという事なんですから、その人達が和賀心を目指す事になるのですから、そうゆう願いを持つ所に教会と共に繁盛していく道が必ず開けるんだと最近は言ってるわですね。
 教祖金光大神はね、天地金乃神から受けられたおかげを話にして残しておくとおっしゃる。その話の一番根本になるものは、私は和賀心であると思う。
 そこでその和の心とは、賀の心とはと追及してまいりますとです、生神金光大神とゆう神格のところになるのです。
 だから生神金光大神という所までいかんにしてもです、私共がこの和の心をいよいよ目指させてもろうて、和が壊れない、いわば精進、またはいよいよその和の心がもっともっと深い広いものになって行くとゆう精進。
 そんためには私共が小さい事からでもです、例えばドアの開け立ての事からでも、自分の心にイライラモヤモヤが起こらんように、もう初めからそれを心の中に念じてからいろんな難しい問題になる前には、どうぞこの和賀心が、和の心が崩れませんようにとゆう折りを持って、その問題に取り組むとゆうような細心な注意とゆうものが必要じゃないだろうか。
 賀の心とゆうのは昨日のいわゆる蚊取り線香になる事です。(左巻きになる事です)いうならば賀の心とゆうのは、馬鹿と阿呆にならなければ賀の心とゆうのは生まれてこない。
 普通でならもうとにかく腹が立つ事である。悲しい思いをする事である。それが馬鹿と阿呆になるとその苦しみから抜ける事ができる。
 その事が有難い、本当に馬鹿と阿呆になる事はこんなにも有難いとゆう事が分かる。その有難いとゆう心が賀の心。
 だからそうゆう心をいよいよ、お国替えのおかげを頂く時にその和賀心の状態を、それがいよいよ本当なものであるならばある程に、徳を持って行けるのが、あの世にも持って行けるのであり、この世にも残しておけるとゆう神徳とゆう事になる。
 神徳の内容は和賀心だとゆうふうに今日は聞いて頂いた。一
 それを例えば故郷に錦を飾るとゆうように、いわゆる私共が天地に帰らせてもらう時に、魂のふるさとに帰らせてもらう時に、そういう一陣の風と共に、それこそはかなく散ってしまうとゆうようなものでなくて、その魂の清まったそこん所を持って行ける信心を目指さなければいけません。
 命がけで一生働いたと言うても、それが火遊びのようなものであるならば、もう本当にアッとゆう間に無くなってしまうようなものを私共は目当て目指しにしておるような事はないだろうか。目当てを変えなければいけない、目当てはどこまでも和賀心、しかもそれを私の心に頂いて教会全体に頂いて、家族中に頂いて、自分の周辺にいわゆる全教一新、そして教祖の受けられたいわゆる和賀心を目指さしてもらい、全教が一家となって、一丸となって、それを全世界に広げて行こうとゆうような働きを、働きのできれる信心を目指さなければいけないと思います。
 どうぞ火遊びのような生活ではいけません。目指す所はどこまでも、いわゆる和賀心をもって、どうゆう問題があってもその和賀心を通してそれをおかげにして行く、問題が問題にならんほどしのおかげを頂いて行くとゆう事。
 とゆうほどしの素晴らしい事を今日は聞いて頂いたけれども、それを聞かぬ子は親でも仕方があるまいがとおっしゃるから。
 だから皆さんでも、聞いただけでなしに、それを行の上に現わさなかったら仕方あるまいがとおっしゃるから。
 だから皆さんでも聞いただけでなしに、それを行の上に現わさなかったら仕方あるまいがとゆうように、親をでがっかりさせるような事になる。ですからどうぞひとつここの所をお互いの信心の目当てとゆうものをハッキリ本当な、いわゆるあの世へ持って行けるとゆうほどしのものに置いて信心の稽古をさせてもらわなければならんですね。どうぞ。
(昭和四十八年六月五日朝の御教話より)